住田徳蔵さんの言葉「図形と加工図形だ!」

AP100(PLSモデル)の工具軌跡をまるで図形のように操作できるように、Move(移動)、Rotate(回転)、、、などの操作関数を用意したら、PLSモデル(Punch-Laser-Sheet)の名付け親であるアムテックの住田徳蔵取締役が「加工図形だ!」と名付けました。

でも、一部の開発者を除き、アムテックの殆どの人たちは””そんなのがあるか!””と馬鹿にしていました。

結果的には、これらの操作関数がPLSモデルとして残りました。

AP100(PLSモデル)は、いわゆる図形と加工図形(工具軌跡)を操作するアプリとなったわけです。

 

住田さんは「俺は知っているんだ。某建設会社がデータベースの設計に失敗して、ずっこけたことを!」と自慢していましたが、ではAP100のIOTAモデルは何なんですか?と尋ねたら、「えっと、青木さん!」と誤魔化していました。本来はそれだけ重要な仕事なら取締役や社長といった上級管理職が担うべき仕事の筈ですが。ぶん投げるのが得意な人たちです。

 

ただ、今振り返ると、これだけ批判されて、鬱病になり精神疾患を10年以上患い、職を失うなど散々な目に遭うくらいなら、AP100をIOTAモデル(井一・小木曽・田辺・青木モデル)のままで放っておき、できません、できませんを繰り返しておいた方が良かったと思います(「倉澤睦由さんのサラリーマン根性で!」)。多分、IOTAモデルなら、出来上がりはAP60より酷くなっていたでしょう!

伝説の営業マン前川覚さんの言葉「見切り千両ではないのか!」

伝説の営業マン前川覚さんは、ORIGAMIデバッグプロジェクトの終盤にアマダメトレックスの高橋裕取締役に対して、「ORIGAMIは見切り千両ではないのか!」と発言して、プロジェクトの継続を停止させるキッカケを作りました。

でも、今振り返ると”AP60こそ見切り十万両”ではなかったかと思います。

では、25年以上前の、井一義人さん・小木曽さん・田辺和生さん・青木保さんによる、AP100(IOTAモデル)はどうなのか?まだ、あいも変わらず出荷されていないので、いつになるとできるのか全く不明です。見切る前に、ダメなのか?それならそんなIOTAモデルを「やれ、やれ、完璧なんだ!」と言った彼らは何でしょうか?AP160(IOTAモデル)、VPSS 4ie(IOTAモデル)は本当に役立つの?

 

盗まれたチューリップの鉢植え

私が幼稚園児の時に、幼稚園からチューリップの球根をもらった。

鉢に植えて、毎日水をやりながら、花が咲くのを今か今かと楽しみにしていた。

道路に面した家の敷地に鉢植えを置いていたのだが、蕾が出て、今にも咲きそうになった前日にその鉢植えは誰かによって盗まれた。

幼児の時ながら、今でも記憶にある悲しい出来事だった。

 

私がアマダグループのアムテックというソフト会社に移籍になって、板金用CADCAMシステムの開発にあたっていた時、現在のAP100(PLSモデル)の開発に当たることになった。

本開発に際して、出来上がるソフトウェアの著作権の放棄に印鑑を捺したが、その前に販売していたAP60の販売が振るわず、豪を煮やした江守会長が量販できるシステムが出来上がれば、インセンティブを出すということになった。

私は社長を始め、上層部の人間により、昇進を止められていたが、頑張って設計すれば多額のインセンティブを貰えるものと思っていた。

当時設計したシステムは、アムテックや関係者のお気に召さなかったか、「変なものを作るんじゃあない」とか散々言われて、更に「売れない」とか「遅い」とかも散々罵られて、しまいに鬱病にされて、会社を辞めることになった。

そして、会社を辞めて、故郷に帰って、ソフト開発の派遣労働をしたが、派遣先のリョービ印刷機のソフト開発部門にまで悪い噂を流されて、とても仕事が続けれれる状態ではなくされた。

しかし、今から14年前にインセンティブパワハラの請求を親会社のアマダに訴えたが、著作権の放棄を盾に断られた。

江守会長がインセンティブを支払うという話になったのは、著作権の放棄に印鑑を捺した後であったのに。

盗まれたインセンティブだ!

 

 

アマダ常務でアムテック社長だった平田社長の言葉「開発は面白い。でも突っ込み過ぎるな!」

私が、アマダソフト工房10階でNewAP構想(後のAP100)での超プロトアプリ開発に取り組んでいた時、アムテック社内での平田社長への進捗状況の説明会があった時、CAMの開発リーダーだった元アマダのC&C事業部のCAMの専門家?の田辺和生さんが取り敢えず当面実現しようとする機能について説明をしたら、平田社長が言った言葉が「私も機械の開発をしてきたが、開発は面白い。でも突っ込み過ぎるな!」でした。

その当時はまだソフト工房7階のPCLプロジェクトができる半年以上前で、ベンドモデル騒ぎの起きるすぐ前だったし、NewAP構想も井一義人さん(I)・小木曽さん(O)・田辺和生さん(T)、及び協力会社の青木保社長(A)のIOTAモデルだった時で、全く先行きが不透明で、自動加工だとか、工具軌跡を図形属性にするとか、工具割付辞書・テンプレート辞書・学習機能とかいったことが渦巻いていた時期で、かなり突っ込んでいた仕様?だったわけですが、私個人は平田社長の鋭い指摘と感心してました。

一方、田辺さんは社長の指示など無視して、IOTAモデルから現実的なPLSモデルに我々実務担当者が変えた後でも、工具奇跡の図形属性構想などの夢に没頭していました。前年にアムテックを辞めていったパッケージポスト開発の担当者にまで自慢してアイデアを提起していました。

結局、AP100(PLSモデル)が世の中に出荷されて後には、PLSモデルを田辺さんが仕切ったことになっているようですが、現実は全く違います!

 

旧アムテック迫屋さんの言葉「アイツら、仕様書を書かない!」

私がアマダのソフト工房10階でAP200CAD開発とNewAP構想に関わっていた時に、旧アムテック迫屋さんがNewAP構想の時に、井一義人さんたちのことを言った一言が、「アイツら、仕様書を書かない!」でした。そして、「すぐいなくなる」とも。

 

迫屋さんがNewAP構想の時にIOTAモデルの超プロトアプリのために書いたコマンドラインのコードはAP100(PLSモデル)のオペレーションの一部として組み込まれました。とても役にたった筈です。

 

NewAP構想の前のAP200CADの機能の一部としてパラメトリック機能(D-CUBED)をポーティングしてもらいましたが、その時目標を達したのにボーナスの評価が悪かったと嘆いていましたが、その査定をしてのは私ではなくて、坂口聡さんか住田徳蔵さんです。なぜだか、私には査定評価表さえ渡されませんでした。所期の目標を達成したのに評価が悪いと嘆いていましたね!

旧姓北村瑞穂さんの言葉「井一さんが要求仕様を書かなかったの!」

アマダのソフト工房でAP100のIOTAモデルからPLSモデルに入れ替えをしている時に、何でこんなにシステムが不明瞭なのと旧姓北村瑞穂さんに尋ねたら、「井一義人さんが要求仕様署を書かなかったからなの」と答えました。つまり、大元の要求が不明瞭な上で、システムとやらを分解して部分ごとに開発できるとした訳です。私はAP60の開発ドキュメントでいいから開示してくれるように頼んだのに、井一さんたちは協力会社のTISには開示していながら、私には開示しなかった。

 

因みに、ソフト工房7階から外れて、南館に席を置いてもらった時、住田徳蔵取締役から事情聴取を受けて、私が何でNewAP構想など始めたのかと住田さんに尋ねたら、「AP40やAP60の開発に携わった彼らがやりたいと願ったからだ」と言って、「アマダが自動プロを開発しているという噂が出るとCADMACが驚くぞ!CADMACを脅かしてやるんだ」とも言ってました。

私はその話を聞いて、何だIOTAモデルを変えなければ良かったと思った。

 

そして、不思議なことに住田さんは、「VIPROSのGコード(G666→G6666など)を3桁から4桁にしようという話があるんだがどう思う」と問われたので、そんな何桁も増やすのではなくて補助コード(Mコード)を拡張してプレスの情報をつけた方がいいんじゃないですかと言っておきました。加工のことを知らない私に何で問うのか不思議でした。

また、ソフト工房10階に戻った時に坂口聡さんが、「AP100では幾何形状の精度をどうしたのか」と問われたので0.001mmにしておいたと言ったら、「何でそうしたの」と問うので、 NC装置のGコードの座標の桁数が小数点以下3桁(=レーザー。NCTは2桁ですが)まであるのと板金加工の精度の程度からそうしたと答えたら、そうだったのかと不思議なことに感心してました。でも、もしこのAP100(PLSモデル)をインチ系のNC装置に持っていかれたらと内心青くなりました。

AP200に戻る時に、加工のことは尋ねないと言っていた住田さんにしろ坂口さんにしろ、嫌がらせとしか思えない尋問でした。

リョービのプリプレス設計課の関係者の言葉「リョービは優秀です。一度聞けば分かる!」

アマダグループを辞した後、地元の備後地方に戻り、精神状態の落ちつかいない中、仕事を探しに職安に行ったりしていた。

当時は、精神的にかなり鬱な状態が続いていたが、実家の米屋の仕事も斜陽になっており、実家の仕事を嫌々やっていた弟がいたが、先行きのないんのなら見切りをつければいいのにと思っていたし、閉店までの引き継ぎをするつもりでいた。

そんな中、隣町の大門にある大宮工業という会社に雇われることになったが、彼らは私が過去にアマダグループでオブジェクト指向開発をやっていたことやMacも使えることに着目していたようで、入社して2週間ほどで派遣労働の仕事先があることを言ってきた。

その派遣先が同じ系列のシステム開発会社のミウラという会社であったが、実際はミウラという会社は広島県府中市内のリョービという会社でソフトウェアの派遣労働をしていて、結局多重派遣により、リョービ印刷機事業部のプリプレス設計課に派遣されることになった。

リョービのプリプレス設計課はDTP(Desk Top Publishing System)を開発しており、今現在振り返れば、その前進は写植機のソフトウェア開発であった。

当時のプリプレス設計課の開発しているDTPは、UNIX上で動くEP530とういシステムだったが、Windowsが席巻してからWindows上でのDTPソフトを開発しようとしている状況下にあり、同時にオブジェクト指向開発も取り組みたい旨だった。

私が既存システムのEP530について説明を受けたが、実は既に前任者がいて、オブジェクト指向について少し設計を仕掛けていたところであったが、この方は既に辞められており、私がその後を引き継ぐ立場だったことを知った。

EP530は単色の印刷物しか扱われない仕様のソフトウェアを256色まで無理やり改造して持ってきたものであり、メモリーリークを恐れて固定メモリーを大きく取っていて自由度がなく、更に元が写植機ベースの色濃く残るシステムであった。要するに古いソフトがベースにあった。

リョービという会社は東洋一のダイキャスト製造を誇っていたようで、彼らは自らが優秀だと自負していた。

そして、その自負の一つに、リョービは優秀で社員はどんなことでも一度聞けば分かる」と言っていた。

だから、彼らは恐ろしいことに協力会社や下請け企業に対してもこれを強要していた。つまり、何度も聞き直すことを嫌がった。

でも、私の性格では必要なことは何度でも聞き返すのが当然と考えていたので、彼らの態度に辟易していた。

本当に一度聞けば何でも分かるなら、なぜプリプレス設計課にこんなに社員が必要なのか、大いに疑問であった。

つまり、プリプレス設計課のリーダーの村上次長一人が課を営んでいれば済むことだと私には思えた。

私が再度確認のために再度聞いたら、協力付会社のCSKの宮脇さんは「また聞いてきた!」と不愉快を露わにしていました。

EP530をベースにしたオブジェクト指向のミニアプリができたら、リョービの野島さんが言った言葉「できん、できんが、できるようになりました!」野島さんは実質的に理解などできている訳ではないし、また設計実装を共に行なった人たちも同様な筈であった筈だ。

アルバイト価格のシステム設計の賃金に不平を漏らしたら、リョービの山本周造さんが言った言葉「田舎じゃ!安いんじゃ!」でした。

リョービの村上次長の言葉「リョービは勇猛果敢です!そしてワシは村上水軍の末裔じゃあ!優秀なんじゃ!」と。

彼らリョービの人たちは、アマダ側の関係者と通じており、私:藤村をパワハラで虐める方法を知っていた。彼らは、私が「アマダで違うものをつくりょうた!」とか言いがかりをつけてきた。

プリプレス設計課の人が、「リョービの仕事がしたくて、備後地方に戻ってきたんだ」と言い掛かりをつけてきたので、それは明らかに誤りだったので、パワハラも受けるし、賃金もアルバイト価格だったこともあり、私の前任者同様に近く辞める機会を伺っていたというのが真相だった。

彼らが北京の方正という会社のFoundersFitというDTPソフトをベースに開発することを決めたが、私には既存システムとの違いが多くて、うまくいくかどうか判断できませんと言ったら、彼らは「判断するのはワシらじゃ!」と言ったので、これを契機に辞めた。

そして、リョービの開発の仕事から手を引いても、私の実家が彼らの地元でもあることで、要らぬ噂や刺客を送り込んできて、更に精神状態を悪化させた。

そして、恐ろしいことに、父親が亡くなって、備後地方を去った後、再び神奈川県に戻ってからも、彼らの魔の手が何年にも渡り、私を苦しめた。やっと彼らが手を引いたのは、私がこのブログを書き、彼らに数億円の制裁費用を要求するようになってからだ。

 

アマダグループの井一義人さんとリョービのプリプレスの人たちは結託して、二十年以上も私に嫌がらせをしてきた。