父親の葬儀と母親の介護施設送致の後、再び神奈川県へ
2008年3月末に父親の葬儀を終え、福山近郊で母親の介護施設を探したけれど空きが見つからず、宮崎県の弟の住んでいる近くの介護施設に母親を送り届けたのち、2008年10月中旬に、再び職を求めて、神奈川県に舞い戻って来ました。
神奈川県に舞い戻ったのは、量販できたAP100(PLSモデル)がまだ販売されており何らかの仕事に関われるのではないかという期待と、それがダメでも首都圏ならどこかの会社で仕事にありつけるのではないかという期待からでした。以前、原子力関係で私が仕事をしたCRCの新型転換炉原型炉「ふげん」関係の仕事は、ふげんが既に所期の目的を終えて、廃炉になっていたのや、もう原子力の仕事はしたくなかったので避けた。
福山市内の実家から自家用車のホンダFITに着るものや布団毛布などを積んで高速道路を直走り(新幹線でなく自動車で移動したのはリョービからの嫌がらせを避けたかったので)神奈川県内へ入り、
予め決めておいた大和市内の中央林間のアパートに荷物を置き、生活に必要な品々を買い求めたりしたのち、早速アマダのウェストブロックの正門前に車を止めて、ガラ携から倉澤睦由さんに神奈川に舞い戻ってきて何らかの仕事に関わりたい旨のメールを打った。暫くは駐車場にいたが、何ら返事がないので、車でアパートに戻り、その晩にも、父親の葬儀が終わり仕事を探して神奈川県に戻ったとの、メールを再度打った。
しかし、数週間待ったが検討中とも断るとも返事がないので、不愉快になり、キッチンの包丁の写真を撮り、倉澤さんに不平のメールに同写真を添付して送った。
そしたら、その2週間後に、アマダから郵送で、アマダの弁護士を通じて、その包丁の写真に対するお怒りの書類が届いた。要するに、刃物の写真などを送ることは不謹慎で罪だとのことらしい。
でも、AP60までの事業に対する200億円を超える失敗は企業としての不謹慎ではないのかという思いが私には湧いてきた。私が関わることで、AP100(PLSモデル)は量販できて事業として成功した面が大きいのに、親の介護が終わり戻ったからといって、何ら返事をくれないのは不謹慎ではないのか?ただ、アマダグループの場合、アマダが失敗すればするほど、子会社のアムテックは儲かる仕組みになっていましたが。
まあ、もっとも、会社に時間潰しに来ているサラリーマン根性の倉澤さんにメールを送って頼んだのがよくなかったのかもしれなかったけど。
そして、私が神奈川県大和市中央林間のアパートに住み始めると同時に、アマダの井一義人さんと共謀していたリョービから差し向けられた追手の刺客がアパートやその周辺までわざわざ広島県府中市からやってきて、嫌がらせを始めていました。
アパートに閉じこもっていても仕方ないので、何となく、旅行に出ることにしました。
東北地方への旅路
ホンダFITで白川関跡まで車を運転して行くが、仙台まで行くのを諦めて、引き返す。
帰り道にまだ震災前の福島第1原発近くまで行くが、見学しようかと思うが、結局立ち寄らなかった。
約1週間ぐらいの旅行でしたが、精神的には落ち着きを取り戻せないままでした。
そして、神奈川県内の中央林間のアパートに戻った。
アパートの外壁の補修工事
誰が頼んだのか(当時は精神的に不安定であり、多分アマダかリョービが嫌がらせのために依頼したのだろうと考えた)、アパートの外壁の補修工事があり、日中アパート内にいられなくなった
都内のホテルへの逃避
あまりにもアパート周辺が雑然としたので、東池袋のサンシャインホテルに逃避して、大量の宿泊費を浪費して、所持金を失う。
何らかの知らせがあるだろうと誤解していたが、梨の礫だったので、
結局、お金を失い、嫌々ながら中央林間のアパートに戻ると同時に、自家用車のホンダFITも売却し、生命保険も解約して、生活費に当てた。
愛甲石田周辺へのビラ撒き
これらの原因は、アマダとAP100(PLSモデル)の開発利権に関わることが原因したと思い、
AP60までに投下された200億円以上の失敗とAP100(PLSモデル)で精神を害して自殺寸前を何度も繰り返したことなどをビラにして
石田200番地周辺や愛甲石田周辺にビラ撒きした。
田辺和生さんのマンションの郵便ポストへの洗濯洗剤の投下
AP100の開発で直属の上司だったCAMの専門家?田辺和生さんからの回答がなかったので、田辺さん一家が暮らす愛甲石田のマンションの郵便ポストにビラなどと共に洗濯洗剤をポストに入れる。
後日、私が入院する段になって、その洗剤の類は、私の元に戻ってきたのだけれど。
アマダの知財部との話し合い
アマダのフォーラム246周辺に出向いたら、アマダの知財部の担当者に呼び出されて、知的財産権の話し合いを行う。
当時のアマダの岡本社長と知財部としては、どんなパワハラや迫害があったにせよ、ソフトウェアの権利を会社側の所属とすると捺印を押した限り、不服を申し立てる権利はなく、亡くなった江守会長のインセンティブプランなど知らないと言った。
本当に不服なら、株式会社アマダを訴えて、裁判しましょうと知財部は言うのである。(その当時の私は、既に所持金を使い果たしていて、弁護士を雇う金などないことを知財部は知っていたのではないか)
同時に、この話し合いに特許部に移った元アムテックの近藤課長が嫌がってこの打合せに出席しなかったことも分かった。近藤課長はまた愛妻弁当を食べに会社に来て、特許部に座っていたらしい。
知財部がいうには、職を求めていて、アマダで働きたいなら、アマダには雇用する余裕はありますよと言っていたけど、いざ職を得て働き始めていて、また井一義人さんや田辺和生さんのような上司が上に来て、てんてこ舞いに働かせられて、挙げ句の果てに精神病を再発し、自殺に追い込まれるような羽目になればと二の足を踏んだ。知財部の担当者は、その時、いやらしい目をしていた。
井一義人さんとその仲間たちは、”ざまぁみい”といいたげのように想像がつきました。
田辺和生さんが、まだNewAP構想の時に、「AP60は俺が設計したんだ!」などと豪語していたけど、今では、「AP100は俺が設計したんだ」と息巻いて豪語するために、私を遠ざけたいのが見てとれます。
伊勢原警察署への上申書の提出
その後、再度アマダの石田200番地近辺に出向くため、愛甲石田駅に来たところ、
愛甲石田駅前の派出所の警察官により、アマダの意向により、今後は伊勢原の愛甲石田周辺に来ないようにとの上申書を書かされる。
アマダの岡本社長は、私を追い払うために、警察に依頼したようです。
この上申書を書いて以降、愛甲石田駅は通過するものの、下車をしたことがない。
精神病院への入院
所持金が無くなり、大学時代の同級生に、生活保護の申請をするように勧められ、やむなく生活保護に入ると同時に、
精神病院に通院するように宮崎の弟に言われて、大和病院に行ったが、すぐに入院となった。
最初に大和市内の大和病院に入院させられて、9ヶ月後に東村山市の三恵病院に転院させられた。
大和病院では神奈川県知事に対して、不当入院を訴えたが却下された。一方、三恵病院では東京都知事に対して、不当入院を訴えたら訴えが認められて、退院となった。(当時は都の担当者と石原慎太郎知事と猪瀬直樹副知事には感謝した)結局、通算1年半の間、入院させられた。
その間、東日本大震災を東京都内とはいえ、経験する。震度5弱だったらしい。
精神病院に入院している人は、精神疾病の人だけでなく、知的障害者や薬物中毒の人などが混ざっていた。
アパートの引越しと精神科への通院
三恵病院を退院するにあたり、中央林間のアパートにあった荷物は宮崎の弟が首都圏内のトランクルームに保管していたので、
同じ域内の静かな(現在住んでいる)アパートを探して、退院と同時に引っ越して、南町田の飛鳥病院に2週間に一度の割合で通院するようになった。
南町田の飛鳥病院は、三恵病院の主治医(女医)が知り合いがいるのでと女医を紹介してくれた。
少し寒さを感じる11月に入り、入居した。
障害者枠での就労移行事業所での勉強と障害者枠での再就職
飛鳥病院に通院すると同時に、デイケアへの参加を勧められた。デイケアでは食事が(生活保護者に対して)無料提供されたので、通常の診察での通院以外に、週に3日ほどデイケアにも通うようになり、同じような精神障害者と知り合いができた。
そして、3年ほど通院していたら、主治医(女医)から、まだ若いから働きませんかとの障害者枠での就労の勧めを受けた。いざ働くとなると、働かなかったブランクがあったので、就労移行事業所を探して、まず就職に必要な能力と生活習慣をつけることが必要と言われて、都内の用賀にあるDoWillという就労移行事業所で勉強することにした。DoWillでは、身体障害者を主に対象として、コンピュータアプリケーションの利用を勉強させていたが、精神障害者も当時は受け入れていた。そこでは、私はExcel VBAや建築CADやAdobe製品(Illustrator,Photoshop,PageMaker)やC#の勉強などの講習を受けた。当初2年の講習であったが、就職先が見つからず、結局1年延長してもらい、総計3年通った。
就職先として、楽天の子会社で障害者雇用をしている会社にも訪問したが、採用条件に高齢者を除くと書かれていなかったにもかかわらず、いざ出向くと高齢の方はダメと断られ、無駄足を踏んだ。私は、それ以来、楽天での買い物を止めた。楽天の三木谷浩史さんは、若者を中心に会社を形成することを望んでいるようですから、高齢者は楽天グループとの商品の購入や取引は止めるべきということがここで分かった。「成功の法則」という著作に書かれていたことに、”高齢者を騙せ!”を加えるべきだ。
就労移行事業所に通っている間も、通所の電車の中や自宅アパート付近で、リョービやアマダからの嫌がらせを受けた。
そして、1年の延長でやっと、都内の成瀬のサンリツオートメイションという会社の品質保証部に就職ができた。同時に、生活保護を抜けた。ただ、サンリツオートメイションに入社できたのはDoWillでの講習内容が直接有効だったわけではなく、長いパソコン経験を考慮してもらったことが主要因であった。品質保証部での仕事は、会社内で開発販売している産業用コンピュータのハードウェア面とソフトウェア面の品質を保証する検査が主な仕事となった。
結局、サンリツオートメイションの品質保証部の仕事は61歳まで続けて、定年退職をした。
定年延長がありながら、定年退職をした理由は、障害者雇用とはいえ、健常者並みに働いているのに報酬に大きな差があったこと、富士通から転職してきてそれを鼻にかける嫌味な高島さんという上司がいたこと、物理を始め色々と勉強したかったことなどがあった。また、実家を売却して、父親からの相続金の配分が入ったことも大きかった。
このブログのことはじめ
定年退職後に、このブログを綴るようになった。
ブログを書くようになってからも、リョービやアマダからの嫌がらせは続いたが、やっと最近この3年くらい前から嫌がらせの話は消えていったように感じる。多分、彼ら当事者が定年近くを迎えるようになり、且つ私が法的に訴えられないと踏んだからかもしれない。
アマダは私の功績を認めないばかりか、井一義人さんなどを使いリョービと結託して嫌がらせをしてくる。これがアマダの実態だ!
田辺和生さんの弟子で「CAMの開発ができる」と喜んでいた橋谷圭介さんは、私のことを「遊んどる!」と言っていたけど、役立たずのシステムを立案して、無駄な外注費をアマダに背負わせるのが井一さんや田辺さんなら、誰が遊んどるのかが分かるはずでしょ!最も、無駄な外注費を浪費すればするほど、アムテックは儲かるのかもしれないけど。
AP200CADの坂口聡課長は、AP100の前段のNewAP構想の時に、井一義人さんたちを「君たちは優秀です。AP40を作ったんですよ」と言っていたけど、ソフト工房7階のPCLプロジェクトから迫害を受けて追い出されると、「AP60をボロボロにしたのは丹羽嘉夫さんや北島課長でなく、彼らなんですね!」と随分批判していました。元々井一さんたちを持ち上げて、NewAP構想の予算をAP200CADから出してあげていたくせに!
私がアマダグループのアマダメトレックスに入社しソフト工房9階に席を設けてもらった時に、アマダで量販できる機械か周辺機器を開発したという精神障害を受けた人が、アマダメトレックスに移籍してアマダメトレックス社員として電気通信大学に通い研究をしていたが、この人も私と同じような目にアマダで遭ったのではなかろうかと今は推測できる。
