アムテック平田社長の言葉「AP200CADの開発に関わってはいけない!」

私が、PCLプロジェクトから離れて、アマダの南館の生産管理部隊に一時的に席を置いてもらった時、アマダの常務でアムテックの社長でもあった平田社長に呼び出されて、平田さんが「アマダの課長だった時は楽しかったけど、今は訳がわからないことに巻き込まれてちっとも面白くない」という発言があった時、同時に「住田君や坂口君に頼まれたのかもしれないが、AP200CADの開発には関わってはいけない!アレは売れない!」と仰っていました。そして、「住田君のように、アマダの事業部を回り、ソフト開発の仕事を取ってくる仕事をしてくれないか?」と頼んできた。

何故、そのような発言が出るのかはその時に分からなかったけど、アマダのソフト工房10階のアムテック本体に戻った後、AP200CADの出来の悪さに驚いたという現実がありました。AP200CADの開発から離れて2年近く経っていたから、随分と完成度が上がっていると思ったけど、なんだこれはという出来でした。ORIGAMIの真似をしたペーパーモデルも酷い出来だったし、DESIGNBASEへの改造依頼さえ完了していない状況だった。

旧姓北村瑞穂さんの言葉「井一さんが要求仕様を書かなかったの!」

アマダのソフト工房でAP100のIOTAモデルからPLSモデルに入れ替えをしている時に、何でこんなにシステムが不明瞭なのと旧姓北村瑞穂さんに尋ねたら、「井一義人さんが要求仕様署を書かなかったからなの」と答えました。つまり、大元の要求が不明瞭な上で、システムとやらを分解して部分ごとに開発できるとした訳です。私はAP60の開発ドキュメントでいいから開示してくれるように頼んだのに、井一さんたちは協力会社のTISには開示していながら、私には開示しなかった。

 

因みに、ソフト工房7階から外れて、南館に席を置いてもらった時、住田徳蔵取締役から事情聴取を受けて、私が何でNewAP構想など始めたのかと住田さんに尋ねたら、「AP40やAP60の開発に携わった彼らがやりたいと願ったからだ」と言って、「アマダが自動プロを開発しているという噂が出るとCADMACが驚くぞ!CADMACを脅かしてやるんだ」とも言ってました。

私はその話を聞いて、何だIOTAモデルを変えなければ良かったと思った。

 

そして、不思議なことに住田さんは、「VIPROSのGコード(G666→G6666など)を3桁から4桁にしようという話があるんだがどう思う」と問われたので、そんな何桁も増やすのではなくて補助コード(Mコード)を拡張してプレスの情報をつけた方がいいんじゃないですかと言っておきました。加工のことを知らない私に何で問うのか不思議でした。

また、ソフト工房10階に戻った時に坂口聡さんが、「AP100では幾何形状の精度をどうしたのか」と問われたので0.001mmにしておいたと言ったら、「何でそうしたの」と問うので、 NC装置のGコードの座標の桁数が小数点以下3桁(=レーザー。NCTは2桁ですが)まであるのと板金加工の精度の程度からそうしたと答えたら、そうだったのかと不思議なことに感心してました。でも、もしこのAP100(PLSモデル)をインチ系のNC装置に持っていかれたらと内心青くなりました。

AP200に戻る時に、加工のことは尋ねないと言っていた住田さんにしろ坂口さんにしろ、嫌がらせとしか思えない尋問でした。

アマダの井一義人さんたちに指示された人たちによる自宅アパート近辺への嫌がらせ。

私は、アマダグループのアマダメトレックスやその後移籍させられたアムテックに在籍中は、神奈川県座間市内のアパートに住んでいました。

アマダのソフト工房7階のPCLプロジェクトを外れて後は、南館の生産管理グループに一時席を置いてもらい、その後ソフト工房10階のアムテック本体に戻ったのですが、元アマダのC&Cの井一義人さんや旧アムテックのCADの石井さんたちがアムテック内に流布した悪い噂により、オフィス内で働けなくなり、自宅アパートでの在宅勤務となりました。

ところが、精神的に疲労困憊していたこともあり、在宅勤務も落ち着かない状態でした。

そんな中で、私の自宅アパート周辺に夜間に多分、井一義人さんたちに指示された人たちが来て、携帯電話で井一さんや石井さんと連絡を取り合い、嫌がらせの話「変なものを作るんじゃあない!」とか「線割付もできないくせに!」とか「板金プロダクトモデルは要らない」などなど声による脅かしが続きました。

そして、この嫌がらせで、夜間も眠れなくなり、ひどい不眠症になり、鬱病を患うようになりました。

そして、あまりに酷いので、当時は自家用車を所有していたので、自宅に戻るのさえ嫌になり、自動車を走らせて、神奈川県から遠く離れた場所を泊まり歩くようになりました。

そして、最終的には、アムテックを退職することになりました。

AP100は井一義人さんや石井さんたちの利権だったわけで、それを私が犯してしまったのが原因でした!

 

そして、この嫌がらせと似た嫌がらせは、アムテックを退社後、実家の広島県備後地方に戻ったのち、派遣労働されたリョービのプリプレス課の人たちに真似されました。リョービのプリプレスの人たちは、アマダグループの井一さんたちと連絡を取り合っていたようで、いかに私をパワハラすれば良いかを井一さんたちから知らされていたわけです。

 

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まだ、アムテックに在籍して、在宅勤務をしていた頃、井一義人さんや石井さんたちによる自宅周辺への嫌がらせを避けるために、何度も自家用車で旅に出た。

その旅先の一つが、今年2024年正月に起こった地震の発生地域の能登半島だった。その当時は地震の多発地域だとは知らなかったが、輪島市七尾市にも行ったし、兼六園にも行った。

当時は精神的に疲弊していたが、今となっては懐かしい思い出である。

今回の地震で被害に遭われた人たちが一刻も良い日常を取り戻すように願っております。

井一義人さんの言葉「AP60は本当はデータベースから作り変えたかったんですけど」

私が、アマダのソフト工房10階のアムテック本体でAP200の開発とNewAP構想(のちのAP100)に関わっていた時に、私が何でAP60が出荷されたばかりなのに、NewAP構想なんて始めないといけないのかと問いただしたら、「AP60はデータベースが悪くて、先行きがないんだ」と言う話だった。

井一義人さんは、「AP60は本当はデータベースから作り変えたかったんですけど、丹羽嘉夫さんが今まで開発したのを使え!と言ったから、仕方なくデータベース周りはそのままにしておいたんです」と言って嘆いていた。

当時の私は、AP60は見たことも使ったこともなかったので、その出来の良し悪しについては判断できなかったが、後々になって使って、AP60は酷くレスポンスが遅いこととよくシステムがクラッシュすることに悩まされた。

井一さんたちが、データベースから作り直したいと当時は言っていたが、当時の私は彼らが手配師だったとは知らなかったので、今考えると彼らはどこかに開発をぶん投げることしかできなかったわけだし、例え作り変えても、まともに使えるようなシステムになったかどうか疑問だ。

要するに、またクズを作ってしまう可能性が大きかったと思う。

 

井一さんたちは、基本的な要求仕様書を書かない、正確には書けない人たちだから、「設計せい!」などと部下に偉そうなことを言うけど、ご自分たちはまるで設計できないのだから、上手くいく筈がないような気がするのだが!

「AP60までの200億円を超える失敗」は行動経済学の本にも書いてあった!」

アマダが量販できたAP40(Fortran版)の後継機として開発したAP40Ver.4(C言語版)が大失敗に終わり、当時アマダのC&Cの事業部長だった丹羽嘉男さんがこの失敗の開発費用を量販版AP40(Fortran版)の開発費用に紛れ込ますという誤魔化しをして以降、失敗が相次ぎ、ボロボロにできたAP60(C言語版)までに費やした外注費用が200億円を遥かに超えてしまった。

ボロボロにできたAP60(C言語版)は売るには売れたが販売台数が僅か数百台に止まり、とてもそれまでの開発費用を賄える額では無かった。しかし、アマダのC&C事業部の近藤課長は数百台売れたことに対して「元を取った」と豪語していた。

失敗を損切りできない体質・責任を取らない体質の組織が犯す犯罪は下記の池上彰さんの行動経済学入門にも書いてあった。

そして、エリート集団で取り組んだAP100(IOTAモデル)でも同じ失敗を失敗を繰返えすところだった。

 

 

実は同様な失敗が「優秀な人たち」と自負していた広島県府中市リョービという一部上場会社の印刷機事業部のプリプレス設計課にも失敗を繰り返す体質があった。どこが優秀なのかを問いたい!

 

2021年の東京オリンピックや今度の大阪万博も同じではないか?

税金だからといって湯水の如くお金を使い効果の薄い興行に仕立てる!そして、お金に群がる人たち!

旧アムテック石井さんの言葉「そんなのがあるか!」

旧アムテック石井さんはAP60のCADの保守を担当されていた方で、AP100でもCAD SUPERを導入された方ですが、私がAP100(PLSモデル)のCAMの仕様書にオブジェクト指向のモデル図と図面を同時に書いていたら、石井さんは「そんなのがあるか!」と言って脅かしてきました。

そして、石井さんは「CAD SUPERの上にCAMを作りませんか!」と言ってきました。と言うのは他社でCAD SUPERの上に自動プロを作っていた実績があったからのようです。

石井さんになぜCAD SUPERを導入して来たのかと尋ねたら、「アマダには時間を金で買え」という言葉があるんだと自慢していました。

アマダは(故)江守龍治会長が約束したインセンティブの支払いを今でも誤魔化している!

結果的にAP100(PLSモデル)がヒット商品になり、沢山売れたにもかかわらず、

アマダは(故)江守龍治会長が約束したインセンティブの支払いを今でも誤魔化している!

 

開発に当たって、開発した製品の所属をアマダグループに帰属させることを了承して、印鑑は押したけど、

(故)江守龍治会長がAP100(PLSモデル)を最終商品としたPCLプロジェクトの成果をインセンティブとして支払うと言ったのはその捺印後1年以上経って、PCLプロジェクトが発足してからです。

私は平田社長から昇進は阻止されたけど、インセンティブの支払いの権利は約束された。

昇進がなくなり、給料が増えず、おバカな上司に使われることが嫌で、会社を去ることを決めたが、インセンティブの受け取りは当然主張する。

200億円以上の失敗をしでかして、横着な開発をした人たちが、偉くなって高い給料を貰うなんておかしな話でしょう!

柳下幸夫さんが「アマダはいい会社なんです。結果を問わないから」と言っていたけど、

売れる商品が無くて、どうやって社員に給料を払うのか不思議でならなかった!

おバカな上司たちは、自らが要求してできたIOTAモデルを推し進めようとしたけど、それは実現に多大な困難があるとみて試作品のPLSモデルに切り替えた。その結果がヒット商品につながったわけですから!本当はツギハギだらけの試作品ではなくて、商品らしくしたかったが、平田社長が許さなかった。